ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

たとえば、ちゃんとした子供は、無限にリソースのある仮想世界に生きている。

たとえば、ちゃんとした子供は、無限にリソースのある仮想世界に生きている。ちゃんとした子供、語弊のある単語ではある。保護者がいて、治安の維持された地域で生きていて、少なくとも四年制大学卒業まで働く必要はなくて、ある程度好きなものが買えて、何らかの労働をするとしてもそれはすべて自分の趣味に使うことができて、健康で、まあ他にもいろいろあるかもしれないけれどそういう条件を、完全にとは言わないけれどある程度満たしているティーンエイジャー。

ある程度の意味で僕はそうだったし、ある程度の意味ではそうでもなかった。だから、そういう世界によるメリットも享受できたし、そういう世界に対する嫉妬というのもあるし、今まさにそういう世界にいる子供へのうらやましさもある。知らなくていいことを知らなくていい世界。皮肉ではなくて、本当に、ある種の知らなくていいことには全く何の意味もないのだし、何の価値もない。

無限にリソースのある仮想世界においては、倫理を実装するコストはゼロで、世界に対する責任は何一つない。

これに、年に一台くらい普通のフェラーリ程度の高級車を買えるとい条件が加わるとまた違った世界になって、それはちょっとお行儀の悪い超富裕層の子供ということになる。これがアメリカだとそこには大抵コカインがついていて、なんというか、無限にリソースのある仮想世界とはちょっと違って、むしろ現実に近くなる。でもそういうのの無敵な感じというのも、文学として鑑賞する分には価値がある。

文学として価値があるというのは僕の宇宙におけるエクスキューズの箱庭で、無頼であったり、アルコール依存症であったり、賭博であったり、それもかっこいい賭博ではなくパチンコ依存みたいなクソみたいなものであったり、薬物であったり、セックス依存症であったり、そういうものがその箱庭に鑑賞用という体で配置される。

「文学」というのは僕にとって、「ファンタジー」の対義語だ。

僕は、いつ死んでもいいと思っているし、死ぬことは恐怖ではない。それは単なる消滅だし、恒久的な安定という意味でいえばそれは究極的な正しさでもある。死は常に僕の横にいて、それは圧倒的な事実以外の何物でもない。

とはいえ、とりたてて死ぬ理由のないこれまでの全ての瞬間において、積極的に死ぬという選択をとることはやはりなかった。健康にも大きな問題はないし、貧困でもないし、治安の悪い地域に固定されているわけでもない。

楽しいことがないのなら、楽しいことを作ればいいし、実社会に価値が見つけられないならそれを作ればいい。捏ち上げる。でも僕が本心で望んでいるものは、捏ち上げる必要のない何かだ。あらゆることが可能だとしたら、僕は何をするだろう。

ファンタジーは逃避だ。布団をかぶって寝てしまえば、VRなんて話にならない融和度の夢の世界に入ることができる。ファンタジーは、寝ているときに見ている夢と同じで、よだれが拭けなくなるまで薬を投与するのと同義で、そこに本質的な救いはない。ヘロインでいい。持ち運びに便利だし、白くてきれいだ。

ファンタジーの対義語が文学だとして、無頼であったり、アルコール依存症であったり、賭博であったり、それもかっこいい賭博ではなくパチンコ依存みたいなクソみたいなものであったり、薬物であったり、セックス依存症であったり、そういうのはまさに現実なんだけれど、それを文学のために行うのはやはり逃避であって、茶番だ。それは、ギャングスタラップがしたくてギャングのふりをするようなものだ。茶番。アメリカだと本当にギャングになってしまって殺されてしまってそれは悲劇だったり、日本だとただのみっともない人になって喜劇だったり、いやどちらが悲劇でどちらが喜劇かよくわからないけれど茶番だ。

僕は子供のころから本を読むほうだったんだけれど、頭が悪いとかお金や時間がない訳ではなくてちゃんと学と社会的地位があってそれでも本を読まない大人、という存在が当時は不思議だった。ニュースや、仕事に関連した専門書は読むんだけれど、一般書は全く読まない。そういう人は、読むべき本がないというようなことを言う。今ならなんとなくわかる。

ファンタジーは逃避だし、現実を舞台にすれば願望か陰謀論になるし、文学のための人生はまるで茶番なのだ。だから、消去法として、そのどちらでもない歴史が好かれるのはわかる。そこには、著者の視点が入るとはいえ、原則的に事実がかかれている。でも歴史だけ見ていても仕方がない。

無限にリソースのある仮想世界においてホットなのは女性の人権であったり、環境問題であったりして、現実的に政治的な問題になる、アメリカだと銃規制とか、日本だとパチンコみたいな問題は、ちょっと二の足を踏まれたりする。対象が違うだけでどこにでも同じようなストレスはある。アメリカの銃とか、日本のパチンコ。それを解決するには、信念とか倫理だけではなくて、実社会の現実的な能力がものすごく必要で、さらに、解決したとして世界から感謝されるわけでも歴史に名が残るわけでもないし、大して世界は変わらない。

でも、おそらく、世界は、無限にリソースのある仮想世界においてそれが正しいと無責任に想像される方向に変化していく。事実として、世界は常によくなっていて、よくなり続けている。人権にせよ、治安にせよ、犯罪にせよ、病気にせよ、あらゆる点で、瞬間的な変動を期間でならして比較すれば、世界は常によくなっているし、無限にリソースのある仮想世界おける完全な世界により近いものになっている。ディストピアは到来しなかったし、世界は破滅しなかった。今のところ。だから、できるできないを問わず、それが正しくて、おそらく未来のいつかはそうなるだろう、と自分が思うことを現実的に実現するというのは、死なない理由として悪いものではない。

まあそりゃあ、君にはできないだろうけど、それが僕にできないとどうして言い切れるだろう。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。