ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

神のいない世界における新しい世代の聖書

死後の世界があるとか、超自然的な力によって勧善懲悪がなされるとか、そういう物語に感情移入ができないというか、価値を感じることができない。

各論でいえば、人間の作った価値観やルールに基づいて自然の世界がそれを裁くわけがないし、じゃあ死んだサルはどこへ行っていたのか、とか、治安の維持にはコストを支払ってそれを実行するものだとかそういったことなんだけれども、それは単に気持ち悪さで終わらせるべきではないので、ではなぜそれが僕が求めるものではないのかと考える。

あらゆる人生には何らかの問題がある。かなりましな人生だと思うし、世界基準で言ったら何を言っているのかというレベルだけれど当然僕にもある。その問題、あるいは課題に対する、解決、解答の助けになるもの、救いになるものを、僕は無意識のうちに求めている。

その求めに対して、物語の解決がそういった、子供の考えた都合のいい世界に頼っている場合、そこには救いがないということになる。子供の考えた都合のいい世界は、この世界と地続きではない。

僕が物語に求めるものは、おそらくこれまで原始からずっと同じように求められていたものの少なくとも一つと何も変わらず、そういった意味での救いであって、それはおそらくある時代のある地域においては、何らかの聖書がそれを担っていたんだろうけれども、人間が宇宙に行き、遺伝子の本体はDNAであることを知り、原子、陽子、中性子、電子、フェルミ粒子、クォークレプトンニュートリノを観察する世界において、それは実用性を失ってしまった。

 
かつて僕は、こう思っていた。

結局のところ僕の心が動く物語というのは【人生がクソ(死にたい)社会がクソ(殺したい)絶望(思春期)→死んでもいいと思っているけれどたまたま生きる→生きていると徐々に自分の人生をコントロールできるようになる→価値は自分で決めるものだ(捏ち上げる)→突然、怒涛の展開(超越)→全員ハッピーエンド】という定型のようで、それも物語の80~90%くらいまでは誰も幸せになれなそうで分量的に終わりが見えてから始まる超自然的ではない急展開で主要人物が幸せになるという歪なバランスがとても重要。

それは、結局そうだよね、という安堵なのではないか。子供の考えた都合のいい世界ではない、この世界と地続きの世界において、捏ち上げるのができることの中の最善の手であると確信しながら、一方で、僕は捏ち上げる必要のない何かを求めてもいる。

繰り返す。【人生がクソ(死にたい)社会がクソ(殺したい)絶望(思春期)→死んでもいいと思っているけれどたまたま生きる→生きていると徐々に自分の人生をコントロールできるようになる】までこの世界と地続きの世界において、【価値は自分で決めるものだ(捏ち上げる)】以外の解決によって、【全員ハッピーエンド】になる方法を僕は本心では探している。そしてその手段の一つとして、僕は物語を求めている。

つまり、結局のところ僕が求めるものは、神のいない世界における新しい世代の聖書であって、それは何一つ新しいことではなくて今のところどこにもない。

きっとどこかに僕の人生の課題があるんだろう。

その通り。如此く気づきというのは突然訪れて、それは常に同時性と普遍性を携えている。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。