ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

フェルメール 少女

落札額

32.8億円

落札者

ID 69

出品者

クラブ

出品担当者

ID 69

特記事項

なし

実施細則 追加

オークションの対象となる物品が、ユニークでない場合(量産品等、複数存在するものの場合)、特定の物品を指定することなく、ある一つの物品を指定することが可能である。その場合、落札者以外のメンバーが、その物品を保有することができないという制限は発生しない。例として、フェラーリ F40が対象となった場合、落札者以外のメンバーがフェラーリ F40という車種を保有することに制限は発生しない。ただし、特定のフェラーリ F40の車両が対象となった場合は、ユニークである物品と同様の制限となる。

既にクラブにおいて他のメンバーが落札済みの物品を保有している非会員が会員になろうとする場合、その物品を保有していない状態になる必要がある。売却、譲渡先は、クラブには制限されない。ただし、これは暫定的な措置であり、クラブが理想的な状態であれば、そのような状態になることがあり得ない。

Social Club

以下、本組織をクラブ、会員をメンバーと記載する。
クラブは、ルールと実施細則によって運営される。

ルール

  1. クラブは、何らかの物品をオークションにかけ、メンバーが落札する
  2. オークションにかける物品は、メンバーが決定する
  3. 物品は、メンバーが所有するもの、もしくは、メンバーが所有していないものとする
  4. メンバーが所有しているものをメンバーが落札した場合、代金はメンバーが獲得する
  5. メンバーが所有していないものをメンバーが落札した場合、代金はクラブが獲得する
  6. メンバーがルールを破った場合の罰則は、死とする

実施細則

クラブでは、物品を現実に所有しているか否かを、区別しない。

「物品を現実に所有しているか否かを、区別しない」というのは、暫定的な取り扱いである。クラブの本来の形としては、現実に力を持ち、あらゆる物品を強制力を持って入手することができ、何らかの物品を所有したい人間はクラブに所属する必要があり、クラブに所属しない人間はなにも所有することはできないという世界である。この状態と現状とのギャップに対する解決策として、暫定的な対応を実施細則で取り決める。

クラブでは、メンバーが物品を落札した場合、債権が発生するが、支払いのタイミングは物品と引き換えとなる。従って、ヴェルサイユ宮殿を落札したメンバーはその時点では支払いをする必要はないが、クラブがヴェルサイユ宮殿を現実に入手した場合、引き渡しのタイミングで代金の支払いをする必要がある。

クラブでは、クラブが現実に所有していない物品をオークションにかけることが可能であるが、メンバーが現実に所有している物品を他のメンバーがオークションにかけることはできない。

メンバーが現実に所有していない物品に関して、メンバーが所有する物品とはつまりオークションで落札された商品であり、メンバーが所有していない物品とはつまりそれら以外のすべてである。

現実に所有していない物品に関して、現実における制限として、あるメンバーが落札し所有している物品を、他のメンバーを所有することができない。

前項より、クラブに所属しているメンバーは、所属しているというだけで、クラブで落札済みの他の物品を現実に保有する権利を失う。

オークションの物品を決定するメンバーは、メンバーの立候補により決め、立候補者が複数いる場合若しくは一人もいない場合は、くじによって決定する。

メンバーが所有する物品をオークションにかける場合は、最低落札価格を設定することができる。

メンバーがルールを破った場合の罰則は死であるが、クラブが現実に力を持つまでの暫定的な対応として、死も債権として取り扱う。

表現は触発によって拡大する

自分の使う言語を作ったのが自分ではないように、絵を描くという行為を作ったのが自分ではないように、それらを使って何かを表現するというのも、やはり自分だけで始まるものではない。表現は触発によって拡大する。自分が生まれたときに世界に存在した「表現」の総量と、今この瞬間の「表現」の総量は、まるで比較にならない。それは数百年前も同じで、古くは印刷技術の発達があり、現代では情報技術の発達があり、それらが直接会うだけではなく、直接書くだけではなく、印刷物だけではなく、(或いはいずれインターネットだけではなく、)表現に接触する機会を増やし、その結果触発によって表現が拡大する。

たとえば、ちゃんとした子供は、無限にリソースのある仮想世界に生きている。

たとえば、ちゃんとした子供は、無限にリソースのある仮想世界に生きている。ちゃんとした子供、語弊のある単語ではある。保護者がいて、治安の維持された地域で生きていて、少なくとも四年制大学卒業まで働く必要はなくて、ある程度好きなものが買えて、何らかの労働をするとしてもそれはすべて自分の趣味に使うことができて、健康で、まあ他にもいろいろあるかもしれないけれどそういう条件を、完全にとは言わないけれどある程度満たしているティーンエイジャー。

ある程度の意味で僕はそうだったし、ある程度の意味ではそうでもなかった。だから、そういう世界によるメリットも享受できたし、そういう世界に対する嫉妬というのもあるし、今まさにそういう世界にいる子供へのうらやましさもある。知らなくていいことを知らなくていい世界。皮肉ではなくて、本当に、ある種の知らなくていいことには全く何の意味もないのだし、何の価値もない。

無限にリソースのある仮想世界においては、倫理を実装するコストはゼロで、世界に対する責任は何一つない。

これに、年に一台くらい普通のフェラーリ程度の高級車を買えるとい条件が加わるとまた違った世界になって、それはちょっとお行儀の悪い超富裕層の子供ということになる。これがアメリカだとそこには大抵コカインがついていて、なんというか、無限にリソースのある仮想世界とはちょっと違って、むしろ現実に近くなる。でもそういうのの無敵な感じというのも、文学として鑑賞する分には価値がある。

文学として価値があるというのは僕の宇宙におけるエクスキューズの箱庭で、無頼であったり、アルコール依存症であったり、賭博であったり、それもかっこいい賭博ではなくパチンコ依存みたいなクソみたいなものであったり、薬物であったり、セックス依存症であったり、そういうものがその箱庭に鑑賞用という体で配置される。

「文学」というのは僕にとって、「ファンタジー」の対義語だ。

僕は、いつ死んでもいいと思っているし、死ぬことは恐怖ではない。それは単なる消滅だし、恒久的な安定という意味でいえばそれは究極的な正しさでもある。死は常に僕の横にいて、それは圧倒的な事実以外の何物でもない。

とはいえ、とりたてて死ぬ理由のないこれまでの全ての瞬間において、積極的に死ぬという選択をとることはやはりなかった。健康にも大きな問題はないし、貧困でもないし、治安の悪い地域に固定されているわけでもない。

楽しいことがないのなら、楽しいことを作ればいいし、実社会に価値が見つけられないならそれを作ればいい。捏ち上げる。でも僕が本心で望んでいるものは、捏ち上げる必要のない何かだ。あらゆることが可能だとしたら、僕は何をするだろう。

ファンタジーは逃避だ。布団をかぶって寝てしまえば、VRなんて話にならない融和度の夢の世界に入ることができる。ファンタジーは、寝ているときに見ている夢と同じで、よだれが拭けなくなるまで薬を投与するのと同義で、そこに本質的な救いはない。ヘロインでいい。持ち運びに便利だし、白くてきれいだ。

ファンタジーの対義語が文学だとして、無頼であったり、アルコール依存症であったり、賭博であったり、それもかっこいい賭博ではなくパチンコ依存みたいなクソみたいなものであったり、薬物であったり、セックス依存症であったり、そういうのはまさに現実なんだけれど、それを文学のために行うのはやはり逃避であって、茶番だ。それは、ギャングスタラップがしたくてギャングのふりをするようなものだ。茶番。アメリカだと本当にギャングになってしまって殺されてしまってそれは悲劇だったり、日本だとただのみっともない人になって喜劇だったり、いやどちらが悲劇でどちらが喜劇かよくわからないけれど茶番だ。

僕は子供のころから本を読むほうだったんだけれど、頭が悪いとかお金や時間がない訳ではなくてちゃんと学と社会的地位があってそれでも本を読まない大人、という存在が当時は不思議だった。ニュースや、仕事に関連した専門書は読むんだけれど、一般書は全く読まない。そういう人は、読むべき本がないというようなことを言う。今ならなんとなくわかる。

ファンタジーは逃避だし、現実を舞台にすれば願望か陰謀論になるし、文学のための人生はまるで茶番なのだ。だから、消去法として、そのどちらでもない歴史が好かれるのはわかる。そこには、著者の視点が入るとはいえ、原則的に事実がかかれている。でも歴史だけ見ていても仕方がない。

無限にリソースのある仮想世界においてホットなのは女性の人権であったり、環境問題であったりして、現実的に政治的な問題になる、アメリカだと銃規制とか、日本だとパチンコみたいな問題は、ちょっと二の足を踏まれたりする。対象が違うだけでどこにでも同じようなストレスはある。アメリカの銃とか、日本のパチンコ。それを解決するには、信念とか倫理だけではなくて、実社会の現実的な能力がものすごく必要で、さらに、解決したとして世界から感謝されるわけでも歴史に名が残るわけでもないし、大して世界は変わらない。

でも、おそらく、世界は、無限にリソースのある仮想世界においてそれが正しいと無責任に想像される方向に変化していく。事実として、世界は常によくなっていて、よくなり続けている。人権にせよ、治安にせよ、犯罪にせよ、病気にせよ、あらゆる点で、瞬間的な変動を期間でならして比較すれば、世界は常によくなっているし、無限にリソースのある仮想世界おける完全な世界により近いものになっている。ディストピアは到来しなかったし、世界は破滅しなかった。今のところ。だから、できるできないを問わず、それが正しくて、おそらく未来のいつかはそうなるだろう、と自分が思うことを現実的に実現するというのは、死なない理由として悪いものではない。

まあそりゃあ、君にはできないだろうけど、それが僕にできないとどうして言い切れるだろう。

思考実験

ウイルスが人類の脅威であることはビル・ゲイツも言っているくらいで、明白である。また、古くはイギリスがアメリカ先住民に天然痘の付いた毛布を贈って感染させたことで有名な生物兵器は、戦術として、一般的に想定されるものである。生物兵器は、国際法で使用が禁止されているが、国際法はあまり順守されていないうえ、正規軍にしか適用されない。ウイルスは、わざわざ人為的に開発する必要はなく、既存のウイルスでも十分活用できる。

では何故一般的に実行されないかというと、自国や近隣の同盟国に被害をもたらすというのが大きい。

実質的に世界最強の国はアメリカ合衆国なのでアメリカを例とする。アメリカに害をもたらしたい国Bがあったとして、B国の移民も当然アメリカにはいるし、移民は一般的に差別を受けていたり、マイノリティであることが原因の不利益を受けていることが多いので、協力を得ることは困難ではない。海外に出てもらい、アメリカCDCのカテゴリAに属するような生物剤、例えばエボラに感染してもらい、潜伏期間中にアメリカに戻って公共交通機関や人の密集するイベントでまき散らして、祖国のために死んでもらうことは、核兵器を開発することに比べれば極めて容易である。

しかし、現代は国境を越えての移動が日常的にあるため、アメリカで例えばエボラのパンデミックが発生すると、B国やその同盟国にも必ず影響がある。ISILくらいアメリカと隔絶していて、国際社会との関係を無視できてもなかなか難しく、ロシア程度の関係性であれば、まず実行はできない。

実行条件としては、世界の多くの国が鎖国に近い状態になり、かつ、人の移動も完全に不可能ではないという状態である。この状況は、第二次世界大戦以降今まで一度も発生しなかった。戦争状態にある一部の国では発生することがあったが、経済活動も含めて、世界的に各国が鎖国に近い状態になることは、今までなかった。現代で、世界の主要な国を鎖国させることは、核兵器を使用するよりさらに難しい。

しかし、期せずして、SARS-CoV-2によるパンデミックで、EUですら移動禁止措置が行われる、第二次世界大戦以降いままでなかったレベルの鎖国状態になった。この状態であれば、例えば生物兵器を使用したとしても、ターゲットの国以外に影響が出る可能性が低い。エボラウイルスであれば、空気感染はしないが飛沫感染はするので、一緒にインフルエンザにも感染してもらえばくしゃみで感染を広げることができる。アメリカ人全員に感染させる必要は全くなくて、感染者が10人出て死亡者が8人出れば、アメリカの経済は死ぬし、テロとしては成功となる。もちろん、ターゲットはアメリカに限らない。日本には「~に親でも殺されたような」という表現があるが、国際的な紛争で親も子供も普通に殺された人はどこにでもいるので、宗教や国家に殉ずる人員はいくらでもいる。

主要国が鎖国の状態になることが実行条件となる何かは他にもあるだろうし、その実行条件が整ったことは100年近くなかったことを考えると、100年間実行されることは考えもしなかったことが実行される可能性が十分にあるし、私はそれを知りたいと思う。

アイテムについて - ゲームのルール - ゲームの箱 - W███████a

ゲームの箱

ゲームのルール

カードゲーム

アイテムについて

アイテムは、「それを得られるなら既定の確率で死んでも良いもの」であるため、発行したプレイヤーの個性が表現され、それがカードの価値となる。カードは一人のプレイヤーが一種類しか発行できず、発行後は永遠に残るため、通常はよく考えられて決定される。ゲーム開始初期は、単に欲しいもの記載するプレイヤーが多く、単に金額が記載されることも多かった。しかし、カードが多様化するにつれ、何らかの病気の治癒方法の実現や、ある地域の平和など、利他的なアイテムも見られるようになった。それは、各人の死に対する感覚や、一人の人間が己の命と引き換えに何をなすか、あるいは、一人の人間が一生かかっても実現できないと思うことは何か、ということの表現となった。

また、別の側面として、妥当さというのも評価に加わった。妥当さというのは、例えば金銭でいうなら、「1/128の確率で死ぬかもしれないが1兆円を得られるというのは、いくらなんでも都合のいい話で、そんなうまい話はない」というとらえ方である。カードを発行するのはプレイヤーなので何を書くかは自由であるが、同時に、そこまであなたの命に価値はないのではないかという見方もできる。金額であれば、生涯年収を250万ドル程度とすると、1/2や1/4の確率に対して500万ドル程度(5億円程度)が節度のある金額ではないか、ということである。

また、命に対しての感覚として、1/2の確率で10万ドルでも別に構わない、というプレイヤーもいて、これも価値観がよく表現されているものとなる。

前述の通り、また後述する通り、ゲームを攻略するプレイヤーとしてデッキをそろえたり、チームのエースとなれるのはごく一部のプレイヤーであるが、デッキをそろえることを目的とせずにただカードを発行して交換するプレイヤーも多く存在している。

最も人気のあるカードの一つに、「もち」がある。これは、1/128の確率のカードで、一生涯「もち」を食べ続ける権利というものである。もちは、日本において、毎年1000人以上が窒息して死亡する食品であるが、基本的に人生というのは、自分の責任においてリスクをとって好きなことをする自由があり、年を取ろうが体が弱ろうが、その精神は他人に規制されるものではないということが表現されており、高い人気がある。

カードの交換、カードの登記、デッキ - カードゲーム - ゲームのルール - ゲームの箱 - W███████a

ゲームの箱

ゲームのルール

カードゲーム

カードの交換

カードは、単純譲渡が認められておらず、必ず交換によって所有者が変更されなければならない。交換は、確率の合計値が同一でなければならない。例えば、確率1/2のカード一枚と1/4のカード一枚を交換することはできず、1/4のカードであれば2枚と交換しなければいけない。また、前述の通り、同一のユーザーに同一のカードを発行と同時に交換することはできない。後述するが、このルールにより、「デッキ」の構築には戦略が必要となる。

カードの登記

カードは発行時の交換も含む交換時に、登記を行う必要がある。登記は以下のウェブサイトで行う。

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発行時の登記に必要な情報は、発行者のID、アイテム名、規定の確率、通し番号、添付された1ドル紙幣のシリアルナンバー、譲渡された新所有者のIDである。

所有者変更時の登記に必要な情報は、添付された1ドル紙幣のシリアルナンバー、譲渡された新所有者のIDである。

デッキ

カードゲームにおいて、プレイヤーが初めに目標とするのは、デッキの構築である。デッキがそろった状態とは、1/2から、1/128までの7枚のカードが一枚ずつそろった状態のことをいい、ルール上、1/128は2枚となるため、計8枚のカードとなる。

デッキの構築の戦略については概要を後述するが、このゲームでは、確率の同じカードを交換するよりも、確率の違うカードを交換する方が難度が高い。また、発行時の交換のほうが、セカンドユーザー以降のカードの交換よりも、難度が高い。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。