ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

私にとって、目先のことではなくて、最も重要なことはなんだろう。

久しぶりに閃輝暗点からの偏頭痛と吐き気のコンボが来た。久しぶりすぎてマクサルトを持ち歩いていない。詰み。こういう一人称的な体験は、自分自身ですら時間が経つと現実の出来事ではなくなっている。過去の自分の体験すら実感できないのに、どうして他人の体験に共感できるだろう。要約すると、頭痛が痛い。なんにせよ頭痛が痛い。それ以外には何もない。Duh!

頭が痛いと、頭さえ痛くなければそれだけで幸せじゃないかと思うけど、治るとそんな事は思わない。戦争とか、貧困とか、あとは何だろう。老いは不可逆だから、治るということはないし。

戦争の対義語が平和なのは何か違うよね、と父と話したことを思い出す。戦争の対義語は戦争でない状態であり、平和の対義語は平和でない状態だろう。

でもこれは、戦争でない状態での思考なんだろうなと思う。頭が痛いときには、頭さえ痛くなければ幸せだと思うように、戦争中は戦争さえなければ平和だと思うだろう。それを切実さと捉えるか、視野の狭さと捉えるかだ。でも、同情はするけど賛同はできない。それは、私の頭痛が治れば世界は平和だというのに誰も賛同してくれないのと同じことだ。切実さと、視野の狭さは同時に発生する。そういえば、閃輝暗点が起こっているときは、物理的に実際に視野が狭い。物理的に? そうではない。電子情報的にだろう。頭が痛すぎで良くわからないけれど。

視野が狭い、目先のことだけしか見えない状態。では、それらが満たされたらどうなるんだろう。私にとって、目先のことではなくて、最も重要なことはなんだろう。

そして、ふっと気づいた。自分にとって重要なことは、死を前提とする人生の虚無にいかにして折り合いをつけるかだ。これは、芸術によって虚無を超越するとか永遠の価値を創造するということではなくて、それによってどうなるかということは、私もわからない。

それは、とてもしっくりくる考え方だ。そう思うと、これまでの人生における感情を整理することもできる。私は、たとえば小説を読んで、これはエンターテイメントだなとか、これは文学だなという風に分類するんだけれど、結局のところそれは、芸術であるかそうではないかということに至っている。美術館に行ってもそうだし、だれかと話をしていてもそうかもしれない。そして、芸術かそうでないかは、人生の虚無に向き合っているか否かということと一致する。

私にとって重要なことは、人生の虚無に向き合っているか否かのただ一点で、それ以外の会話は、ただ話を合わせているだけだったかもしれない。切実かつ視野の狭い状態では限定的にそのなかで何かが意味を持つけれども、それが解消された世界における私の関心は、死を前提とする人生の虚無にいかにして折り合いをつけるか以外に、一切何もない。

自分はなんのために絵を描くのかと聞かれれば、適当な答えを作るだろう。議論になっても結果は出ないのは明らかだし、つまりこういうことですねと総括されても不快だからだ。それは、私の頭痛と同じように私だけのもので、完全に共有することはどうせできない。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。