ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

サッカーの試合の開会式の国歌斉唱で、他国のように国家が歌えない。

サッカーの試合の開会式の国歌斉唱で、他国のように国家が歌えない。口を動かさないわけではないけれど、全力で歌うわけではない。この微妙な感覚は、なかなか他国では味わえない。これは、全体主義への懐疑だ。何が正しいという訳ではない。全体主義故の強さというのも間違いなくある。

全体主義だからこその強さというのは間違いなくある。それは、国家レベルのサイズの話だけではなく、企業でも、何らかの集団でもそうだ。強さがイコール幸福ではないが、弱さはたいていの場合不幸だ。ある集団が強い場合に、必ずしもそこに所属する個人が幸福とは限らないが、ある集団が弱い場合、大抵の場合、そこに所属する多くの個人は不幸だ。その不幸というのは、際限がない。何が正しいという訳ではない。

華氏451度や1984年の世界は、僕には耐えられないけれど、そのほうが強いケースがあることは認めざるを得ない。余計なことを考えているコストで、成し遂げられないこともある。そして、その集団のサイズが適度なら、その集団が誤った選択をした場合にその集団が滅びるだけだから、人類全体にとっては進歩であることも、また認めざるを得ない。集団が滅びた場合にその集団に属する個人が被る不幸というのも、また際限がない。

戦争の対義語が平和であるというのが、子どもの頃、納得がいかなかった。戦争の状態が平和ではないというのは同意できるけれども、戦争がなければ則ち平和であるとは思えなかった。貧困であったり、圧政であったり、虐待であったり、誘拐されて監禁されていたり、そういう状況は平和ではない。

平和を、戦争のない状態と定義するなら、それは単なる戦争と戦争の間だ。そして、戦争がないとしても、華氏451度や1984年の世界が平和ではないとするなら、そういうあらゆる適切ではない状態がない状態を平和だとするなら、それも、ただの、何かと何かの間にある空白でしかない。国外へ自由に移動できるのも、そのための時間を取ることができるのも、前の何かの貯金を食いつぶして、次の何かが始まってしまうまでの間でしかない。僕の人権は今、おそらくここ10世紀くらいの人類の歴史の中で、上位0.1%のレベルで尊重されているし、お金さえあれば、多くのマイノリティもここ10世紀くらいの人類の歴史の中で、上位0.01%のレベルで尊重されているけれども、それは空白の期間だからに過ぎない。そういう人間は、大抵の場合、自分が消費する分を生産できてはいない。なんだかよくわからない社会の仕組みによってもたらされたものによって、良い家に住んで、良いものを食べているけれど、自分でそれを生産することは到底できない。

何かを成し遂げたいと思ったときに、手段として、次の何かを始めることを、僕は否定できない。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。