ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

国技館の怪人、または私は如何にしてあれほど嫌悪していた大相撲に足を運ぶようになったか

子供の頃から少なくとも25歳くらいまで、僕は相撲が嫌いだった。実家が相撲部屋だったとか関連した商売をしていたとかそういうことは全くなくて、一度だけ親に連れて行かれた国技館も相撲ではなくプロレスだった。相撲はテレビで祖父や祖母が見るものだった。その何もかもが大嫌いだった。服装とか、髪型とか、太っているところとか、チケットのプレミアム性とか、いかにも封建的な体制とか、八百長とか、知れば知るほど、そういう何もかもが嫌いだった。それは、限られた世界での身内の馴れ合いで、単なるショーで、人類に全く貢献していない、あらゆるスポーツのように、肉体を磨き上げて人間の限界に挑戦するのではなく、興行として見世物としてくだらないことをしているだけだ、そしてその何もかもが、醜い。アメリカかロシアの、全身が筋肉の格闘家が参戦して、簡単に圧倒すればいいのになと思っていた。

対して、ここ数年は、年3回の東京場所は、毎場所数回は国技館に行く。新宿や恵比寿や高円寺のライブハウスに行くくらいの気軽さで、その代わりに国技館に行く。そういうのって、変化だ。相撲が素晴らしいと思ったわけではない。他のあらゆるスポーツも、大して変わらないのだと思ってしまったのだ。サッカーも、オリンピック競技も、ツールドフランスも、結局のところ興行で、見世物で、商売だ。だから、何の生産性も生み出したくない休日の時間の使い方として、国技館に行って相撲を観る、ということをする。チケットの取り方も、昔は良く分からなかったけれど、分かってしまえばなんてことはない。

不祥事とか、暴力沙汰とか、八百長でニュースになるたび、相撲は本当に良くできていると思う。良くできているから残ったのではなく、色々なものがあって残ったものを見てみると良くできているのだけれど、まさにその通りで、定期的にニュースになる宣伝効果というのはものすごいし、それは意図的に行われているわけではない。問題を起こした人は宣伝のためにやっているわけではなく、その結果としてある程度不幸になるんだけれども、その度に集団としては莫大な広告となって、忘れ去られることがなくなる。ラグビーのニュースがこんなに定期的に流れることがあるだろうか。だから、ラグビーは商売として成り立たない。選手に最低でも1000万円以上の収入が支払われる競技にはなれない。それがいいかどうかは別として。

ルールも良くできている。ちょっと格闘技をかじるとすぐにわかるけれど、トレーニングを積んだ人と人がルールなしで戦うと、簡単に体が壊れる。ある程度体を鍛えた人が素手で顔面を殴ると取り返しの付かないことになるし、関節を極めると本当に簡単に治らないレベルまで壊れる。毎試合、再起不能になっていたら競技が成立しないから、格闘技はルールを設けて制限を行う。例えばグローブをして殴るだけにしたり、殴ることを規制したり、レフリーが素早く止めたり、体重を制限する。それでも、壊れる。制限とトレードオフで、選手の特別性というのは失われる。軽量級のボクサーがその辺を歩いていても、誰も振り返らない。自分と大して変わらないものを見るために、人はお金を払わない。

こういうのは、まさに遺伝的アルゴリズムというか、淘汰が繰り返された結果、残ったものはもの凄く良くできている。分かってやっている必要はなくて、それぞれの要素は明らかに間違ったことをしていても、全体としては生き残る。その結果として僕は、生産的なことがしたくない休日に、ある程度の収入があると比較的安価に感じる価格の、それなりに価値のあるチケットを手に入れて、ちょっとした時間を潰すことになる。

僕が彼女と出会ったのは、国技館の、土俵に一番近い席の一つだった。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。