ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

事実はただそれだけで強い

ものすごく売れているバンドが歌詞の中で枕営業をほのめかしていた。聴いたときは結構センセーショナルだと思ったんだけど、実際のところ、それは抽象化されてしまっていて力がない。そういう話もあるのね、で終わる。
芸能に関わる仕事に限らず、枕営業というのは見るところでは当然のように見る。ふわっとした表現にするなら、恋人や愛人に便宜を図るというのは、当たり前にある。まして芸能事務所によってはごくごく普通に露骨に行うから、それを身近で目にした人間がタブーを公開してやろうとして、メインの仕事でかつ影響力のある歌に入れてしっかり枚数を売る。それでもなんの力もない。

事実はただそれだけで強い。個人が一人称で直接、感情を含んだ考えを述べるという行為は強い。沢山の物語がいくらでも読めて、世界中の最新のニュースが入手できて、あらゆるジャンルのエッセーが販売されていて、価値のある論文が公開されていて、それでも文章はめちゃくちゃで校正も校閲もなく根拠も不確かで引用も適切でない個人のブログやツイートが読まれるのは、そういう生っぽい情報の強さによるものだ。固有名詞の強さ。完全な同時代性の強さ。それはある面で、既存の芸術にはない一つの芸術といってもいい。

映画を、第七芸術というけれども、そのあとに続く第十二芸術くらいに、文学でもなく詩でもなくメディアアートでもない「それ」が入っても不思議ではないし、そういう意味でいわゆる「ネットウォッチ」は完全に芸術鑑賞行為だといえる。でもそれは、花火のようなもので、何も残らない。どれだけ素晴らしい示唆があっても、何も残らない。同時代性と時代が変わっての価値というのはトレードオフで、そういうのはいかにして混合できるんだろうかと考える。

フィクションだからといって、現実の世界に存在するものが登場しないわけではない。あらゆるフィクションも何らかの点で現実に基づいている。机や椅子、人間、政治家、指輪、動物、何もかも空想上のものではない。それはきっと、段階的な抽象度の問題でしかない。

抽象化していつの時代の人でも読める物語といえば童話で、普遍的な人間の行動が描かれている。目の前で起こった事件に、童話をメタファーとして使うこともできる。でも、力はない。例えば、星新一のSFも、童話のように抽象化されていて、何十年も前のSFが全く古くならずに読めるし、その中で発生する人間の感情はまさに今誰かが感じていてもおかしくないくらい普遍的だ。でも、なにかがない。それは、どこか違う世界のいつかの出来事であって、この世界のこの瞬間に起こった出来事ではない。

第三者による分析ではなく、何かの当事者の一人称の、わざわざ発せざるを得ない言葉には、ある種の力がある。その魅力は、実際にあった話なのか、ロールプレイなのか、デマなのか、その信憑性に懐疑的なものでも価値を持たせるくらいの力がある。結果、本当に存在するのか分からない人物の一人称による物語が拡散することもある。皮肉だ。

自分が観測することで世界が存在するなら、客観的な世界は同時に存在している全ての人が観測した世界の集合だから、その文脈においては世界を知りたいと思うことは他人の観測を知りたいと思うということなのかもしれない。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。