読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

ソーシャルシリアスゲーム

およそそあらゆる僕が悩んできたことや考えていることの全ては、文書になって、ともすれば著名な書籍になっているし、それは何度も繰り返される。素晴らしい物語というのは永遠であってもいい気がするけれど、そうではないのは時代性というものだろう。例えば僕は、人が宇宙に出る以前の知性には本質的には共感することができない。「死に至る病とは絶望である」なんていかにもその通りなんけれども、オチは宗教による救いであって僕の知りたいことではない。だから、100年語り継がれる名作と比較したら作りこみが浅くて出来がいまひとつな物語も、常に作り続けられて常に需要がある。例えば、イノベーションマーケティングについて原著で読むべき書籍は何冊かあるけれども、イノベーションマーケティングという言葉をパワーポイントに書いている人の95パーセントは読んでいない。それは、英語が読めないとか、字が沢山ある本が読めないといった残念な理由もあるんだけれども、本質的な原因は自分が必要としている情報以外の部分が多すぎるということだろう。自分が直面している問題以外の話が多すぎて、コストパフォーマンスがあまりに悪い。論を理解するのに全部読まなくてはいけないのはその通りなんだけれども、物事には適切な比率というものがあって時代が変わるとその比率というのが変わってしまう。わざわざ論じられるまでもなく明らかなことが増える。だから、実際には全くピントがずれている、図解されたムックをコンビニで買うのも、ただ頭が弱いというだけではない。実用書であってもそうなのだから、草枕が素晴らしい作品だというのは疑いの余地はないけれども、ティーンエイジャーがLTEを通じて共感するというのはなかなか困難だというのは想像に難くない。

物語。僕は意図的に、物語と物語ではない書籍を混同した。思うに、絶望みたいなあまりに当たり前なテーマというのは、それ自体では文書化に耐えることができない。もちろん論文にもならない。現代哲学のテーマにもならない。人生の無意味さであったり、死に至る病としての絶望というのは、今のところ僕は納得できる結論を見た事がないんだけれども、そういうのは多分当たり前すぎて現代哲学では論じられない。当たり前すぎて論じられないものは、こっそりと物語の中で語られる。物語の中では、当たり前すぎる問いも許されるし、無意味な問いも許される。だから物語はなくならない。

実際のところ、そういう無意味さによる絶望というのには、哲学が名前をつけてくれればいいのにと思う。でも、問いというのは解が伴わなければ新しい論として評価を受けることはないし、解はきっとないのだから出ているものは宗教であったり、信仰であったり、およそ最悪に間違っている。永劫回帰なんて大げさな思考実験は、それこそコストパフォーマンスが悪くて、そんな仮定をしなくても宇宙から地球を見ればあらゆるるものの無意味さは明らかだ。だから、そういう無意味さとそのことによる絶望について、僕が名前をつけようと思う。その言葉は、解を内包しない。

それは、オープンフィールドのゲームのように、昔のRPGのようなゴールはないので終わりがない。あまりにありきたりで誰も真剣に扱わないけれども、実際には何よりもシリアスな問題だ。我々は人間だから、ソーシャルなつながりなしには進めることができない。

それは、ソーシャルシリアスゲーム

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。