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ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

性同一性障害と解離性同一性障害、障害がフィクションに登場すること、尊重と好奇心

私が今まで目にした最も不毛な議論は、プロジェクトマネジメントの現場ではなく、グランドセントラルステーション近くのカフェで行われていた。カフェといってもスターバックスではなくて、フランス語のメニューが出る、安全で、快適で、ほとんど会員制の店で、値段も高い。

1人はおそらくフィジカルには男性でメンタルは女性の性同一性障害のアメリカ人で、もう1人はおそらくフィジカルには男性でそれが元々の人格なのかどうか分からないけれどその時に出ていた人格は女性の解離性同一性障害のカナダ人だった。二人は若く、おそらく親がリッチで、それも小さい事業を運営しているレベルのリッチではなくて会社を上場かバイアウトしたレベルのスーパーリッチで、私は解離性同一性障害のリッチピープルの会話を耳にするのは初めてだったので興味深く、頑張って聞き取りをした。

二人はトイレについて議論していた。

そもそも、解離性同一性障害というのが相当にヘビーなので気付かなかったのだが、解離性同一性障害の場合、それぞれ人格は年齢はまちまちで男性だったり女性だったりするわけで、それに対して肉体の性は固定されているから、当然、不一致が発生するわけだ。更には、それぞれの人格で国籍が違う可能性もある。そもそも国籍というのは自分で決めるものではなくてルールによって定義されるものだから、人格によって国籍が違うというのはナンセンスではあるけれど、主観的にドイツで生まれてドイツで育った人格であればドイツ人になるのだろう。しかしカナダ人はカナダ人だったようだ。

アメリカ人は、解離性同一性障害の人間とディスカッションするのが適切なことなのかどうか悩んでいたようだが、フィジカルな性に人格の性をあわせるということを性同一性障害の「治療」として行われた経緯があるようで、人格を統合するという「治療」が必ずしも正しいとは限らないと考えていた。それぞれの人格にも人権があると考えており、その人格が扱われたいように扱われるのが正しいと思っているようだった。自分が困っているか周りが困っているというのが、精神医学における障害の前提であるというのが自分の理解だが、資本主義国で親がスーパーリッチだと、かなりの範囲で生活に支障をきたすことがない。したがって、ただの人格がいくつかある障害ではない人という判断もありうる。基本的に現在の医学の考えと近いと思うし、性同一性障害の治療の歴史をかんがみるに、現代医学の標準を必ずしも前提としないという点にも合理性はある。しかし、扱われたいように扱われるというのは、自分がドイツ人だと思い込んでいたらどうなんだろうとか、自分がアメリカ合衆国大統領だと思い込んでいたらどうなんだろうとか疑問が尽きないが、残念ながらそのケースではなかったので意見を聞くことはできなかった。

二人の議論はトイレについてだったが、内容については凡庸で、要はフィジカルとメンタルの性が違うことによる問題だった。私の感覚としては、それは社会のリソースの問題で、例えば山の中だったら男女も何もなくその辺でして埋めるわけだし、一つしか設置できないなら当然共同だし、ホテルのように空間と予算が潤沢なら個人ごとに個室があるわけだし、それだけのことだからどうでもいい。そのケースで言えば、トイレより、刑務所とか強制収容所などのほうがよほど問題だと思うんだけれども、二人の生活にはそれらは含まれていなかった。それはともかく、私の興味は、議論の内容よりも、議論の不毛さと性同一性障害のアメリカ人の葛藤にあった。

解離性同一性障害のカナダ人は定期的に小さな嘘をつくし、様々な事実の認識が間違っている。親がスーパーリッチなので、一般的な感覚からすると更に乖離がある。自分に不利になると突然フランス語で話し始めたり、だまったりしてしまう。こういうのは、地球が平面だと考えている人と議論するのとは別の方向性での不毛さがある。しかし、これまでの人生で、尊重されたいと感じていた性同一性障害のアメリカ人としては、相手を尊重すべきだと考え、忍耐強く話していた。もちろん結論は出ない。

他人の障害について興味を持つというのはただの好奇心で、障害を持っている人にとっては正しい態度ではないだろう。私は話しかけることはなかったけれども、解離性同一性障害の人に興味本位で質問をするのは、ひどい皮膚病の人を棒で突っつくようなものだ。ただし、この点については現代社会においては単にライセンスの問題なので、もっと突っ込んだことをしたくなったらドクターのライセンスを取ればいい。精神の自由は絶対である。私は以前、メンタルが男性の性同一性障害の知人が、性同一性障害がフィクションに登場するのが不快だから止めさせたい、尊重されたいと言ってきたので、私は女性なので、女性がフィクションに登場するのを止めさせたいですね、尊重されたいですねと答えたことがある。歴史的経緯で言えば、女性は性同一性障害と同じような偏見と差別の歴史を経ているし、その友人はなんせ人権大国の富裕層で見た目はほとんど男性だったから、アフリカの一般的な女性と比較したらよほど自由なのだ。しかしそれでも、彼は尊重されたいと思っていた。だから、この不毛なやり取りの中で、性同一性障害のアメリカ人が解離性同一性障害のカナダ人を尊重しなければいけないと思って会話を続ける心情には十分に理解ができた。

完全に結論に貢献するつもりがなくて場を混乱させるためだけに参加している人と議論することや、事実の確認の程度が違う状態で議論することや、「こういう前提でこういう目的で、さて正解はなんだろう」という問いに「正解はないんじゃないか」というコメントがついてそれはそうだろうけど言いたいのはそうじゃないんだよなと思って「どうすれば最も良いだろうか」と言い直すことが不毛なのだと思っていたけれども、それはあまりにもラティチュードの狭い世界での不毛さで、人間全体での議論というのはこういうものだと思った。全く話がかみ合わないし、有益な気づきはないし、今後参照すべき何らかの小さな結論も出ない。でも、これがこの世界だ。一部の人間がどれだけ努力して、事実を調査して、関係性を精査して、あるべき姿を考えて、客観的な意見を出したとしても、これがコミュニケーションだ。何かの奇跡でなんとか相手と話が通じて、価値のある結論が出たとしても、自分と相手はそのうち死ぬし、世界の大半はそれ以外の人間なのだ。不毛。多分、これまでの歴史で散々言い尽くされていて、それでも新たな発見として到来する不毛。Wolfskehl Prizeはフェルマーの最終定理の証明者に与えられるが、私は誰かがこの不毛を解決してくれるなら、その一万倍を支払っても構わないとすら思う。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。