ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

私は絵を生産するために絵を描いているのではない。私は世界を理解するために絵を描き、副作用として絵が生産される。

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私は絵を生産するために絵を描いているのではない。私は世界を理解するために絵を描き、副作用として絵が生産される。絵。それは私にとってはそのものだけれど、本質的にはメタファーだ。誰かにとってはそれは文章かもしれないし、他の何かかもしれない。

私はこれまでに生きてきた人生の大半の時間を費やして、あらゆる絵を描いた。本当に、あらゆる絵を描いた。そんな私にとって、エーテルはこの上ない最良の画材だ。私はエーテルを使って世界を理解する。そして、副産物として絵が生産される。

さらに、私は思う。私は、多分、誰かにとっての画材なのだ。誰か、或いは何か。その何かは多分、私を使って世界を理解しようとしているのだ。私はその絵を見たいと思う。しかし、ウルトラマリンが絵を認知できないのと同じように、きっと私はその絵を認知することはできない。

国技館の怪人、または私は如何にしてあれほど嫌悪していた大相撲に足を運ぶようになったか

子供の頃から少なくとも25歳くらいまで、僕は相撲が嫌いだった。実家が相撲部屋だったとか関連した商売をしていたとかそういうことは全くなくて、一度だけ親に連れて行かれた国技館も相撲ではなくプロレスだった。相撲はテレビで祖父や祖母が見るものだった。その何もかもが大嫌いだった。服装とか、髪型とか、太っているところとか、チケットのプレミアム性とか、いかにも封建的な体制とか、八百長とか、知れば知るほど、そういう何もかもが嫌いだった。それは、限られた世界での身内の馴れ合いで、単なるショーで、人類に全く貢献していない、あらゆるスポーツのように、肉体を磨き上げて人間の限界に挑戦するのではなく、興行として見世物としてくだらないことをしているだけだ、そしてその何もかもが、醜い。アメリカかロシアの、全身が筋肉の格闘家が参戦して、簡単に圧倒すればいいのになと思っていた。

対して、ここ数年は、年3回の東京場所は、毎場所数回は国技館に行く。新宿や恵比寿や高円寺のライブハウスに行くくらいの気軽さで、その代わりに国技館に行く。そういうのって、変化だ。相撲が素晴らしいと思ったわけではない。他のあらゆるスポーツも、大して変わらないのだと思ってしまったのだ。サッカーも、オリンピック競技も、ツールドフランスも、結局のところ興行で、見世物で、商売だ。だから、何の生産性も生み出したくない休日の時間の使い方として、国技館に行って相撲を観る、ということをする。チケットの取り方も、昔は良く分からなかったけれど、分かってしまえばなんてことはない。

不祥事とか、暴力沙汰とか、八百長でニュースになるたび、相撲は本当に良くできていると思う。良くできているから残ったのではなく、色々なものがあって残ったものを見てみると良くできているのだけれど、まさにその通りで、定期的にニュースになる宣伝効果というのはものすごいし、それは意図的に行われているわけではない。問題を起こした人は宣伝のためにやっているわけではなく、その結果としてある程度不幸になるんだけれども、その度に集団としては莫大な広告となって、忘れ去られることがなくなる。ラグビーのニュースがこんなに定期的に流れることがあるだろうか。だから、ラグビーは商売として成り立たない。選手に最低でも1000万円以上の収入が支払われる競技にはなれない。それがいいかどうかは別として。

ルールも良くできている。ちょっと格闘技をかじるとすぐにわかるけれど、トレーニングを積んだ人と人がルールなしで戦うと、簡単に体が壊れる。ある程度体を鍛えた人が素手で顔面を殴ると取り返しの付かないことになるし、関節を極めると本当に簡単に治らないレベルまで壊れる。毎試合、再起不能になっていたら競技が成立しないから、格闘技はルールを設けて制限を行う。例えばグローブをして殴るだけにしたり、殴ることを規制したり、レフリーが素早く止めたり、体重を制限する。それでも、壊れる。制限とトレードオフで、選手の特別性というのは失われる。軽量級のボクサーがその辺を歩いていても、誰も振り返らない。自分と大して変わらないものを見るために、人はお金を払わない。

こういうのは、まさに遺伝的アルゴリズムというか、淘汰が繰り返された結果、残ったものはもの凄く良くできている。分かってやっている必要はなくて、それぞれの要素は明らかに間違ったことをしていても、全体としては生き残る。その結果として僕は、生産的なことがしたくない休日に、ある程度の収入があると比較的安価に感じる価格の、それなりに価値のあるチケットを手に入れて、ちょっとした時間を潰すことになる。

僕が彼女と出会ったのは、国技館の、土俵に一番近い席の一つだった。

承認をくれるから好きな訳ではない。

短所が好きな訳ではない。それでも、彼女に関わる全てを、僕は大好きだ。短所が好きなわけではないけれど、それは彼女の一部だからだ。直して欲しいとも思わないけれど、直っても彼女の魅力に変わりはない。彼女が過去に何をしていても、彼女の魅力に変わりはない。もし、彼女がどんなにクソみたいな男と付き合っていたとしても、彼女が体を売っていたとしても、何かの依存症だとしても、人を殺していたとしても、彼女の魅力に変わりはない。承認をくれるから好きな訳ではない。そもそも今のところ、僕は彼女の人生に大して関わっていないし、彼女がそれを望まなければ、きっと関わることはないだろう。それで構わない。僕は彼女に何も求めてはいない。物品も、肉体も、経験も、承認も求めていない。

僕が彼女を嫌いだろうと言った友人の気持ちは大いに理解できる。そもそも、僕は死ぬほど宗教が嫌いで、彼女は教団の教祖なんだから、これ以上の違いはないだろう。理不尽。でもこれが人間だ。

長くなるけれど、結論としては、僕は彼女の何もかもが大好きだ。

これは、たとえば文章にして他人が見たら「まあそういうことも良くあるよね」という話でしかないんだけど、世界中のわざわざ文章になっている「まあそういうことも良くあるよね」という話と同じように、それは自分にとって特別な出来事だった。

友人に、僕は彼女のことが嫌いだろう、と言われた。無理はない。どちらかといえば、僕は物事に対して完全であることを望んでいて、彼女はまるでそういうタイプではない。彼女は人間的にまずい部分と、アレな部分がある。傍から見ていて、クズだな、とか、バカだな、とか、うざいな、と思うことが一日に何度もある。そういうところも全て含めて、あらゆる点を含めて、僕は彼女が大好きだ。

ダメなところが好きなわけではない。彼女が保有する何十ものダメな点は、それ一つで、一人の人間を嫌いになれるくらいのものだ。ようなもの、というより実際、それを一つ保有しているだけで僕からものすごく嫌われて、人生が若干狂った人間が何人もいる。そう思うと、彼、彼女たちには悪いことをしたと思う。彼女はそういう要素を何十も持っていて、それらを全て含めて、僕は彼女が大好きなのだから。特別に美人というわけではなく、何か特技があるわけでもない。短所が沢山あって、その短所が好きなわけでもないし、話し方とか、声の質とか、口癖とか、それぞれの特徴はどちらかといえば好きではない。それでも、それらが総合した彼女のことを、僕は大好きなのだ。不条理。でも、人が人を好きになるというのはそういうことだ。

モネは目にすぎないが、なんと素晴らしい目だろう。とセザンヌは言った。

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モネの睡蓮を見て、私は何が描かれてるのかわからなかった。ぼんやりしていて、抽象画なのだろうと思った。これが睡蓮で、これが水面なのだといわれても、まあそういう思いで描いたんだろうとしか思わなかった。その時の私にとってモネは、マーク・ロスコと同じジャンルの画家だった。

いくつの時だったろう。父親に連れられて、ジヴェルニーに行ったら、まさに絵の通りの光景が広がっていた。モネの絵は、完全に写実で、まったくそのままを写し取ったものだった。ああ、これを描いたのだ、と思った。観光客が何度も入れ替わる中、私は朝から夕方までずっと池を見ていた。その衝撃をどう表現すればいいだろう。抽象画だと思っていたものが完全に具象だったのだ。完全な写実、完全に見たままの世界。

いちばんたいせつなことは、目に見えない。とキツネは言った。

星の王子さまだったのか。ぼのぼのという可能性もあった。フェネギーくん。くすす。

物語にはあらゆる可能性があり、そして収束する。

物語の始まり、世界の終わり

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腕はどこまでも伸びる。手はどこまでも拡大する。なるほど、こういう感覚なんだな、と思う。それは、センサと神経フィードバックで擬似的に作られたものとは思えないくらい自然に私の手で、失ったものと引き換えにどれだけ凄まじいものを手に入れたのかということを私に存分に理解させる。

私は世界を撫でる。私は世界を視る。指で点字を撫でるように、彫刻を撫でるように。しかしそこには色があり、腕の長さという限界がない。そこには私の脳を超えた世界の認識があり、忘却がない。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。