ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

人が人を好きになるということは、いかに理不尽なことかということを述べる。

彼女は、ある新興宗教の団体で働いていた。働いていたというのも不思議な表現だけれど、ある程度のサイズの団体は、普通の企業と同じ仕組みで動いている。経理や総務や法務があり、そのプロフェッショナルがいたり、素人の信者がいたりする。

僕の初恋は小学校で、多分僕はそれを忘れることはない。その女の子は僕より背が高く、頭が良く、頭がいいだけではなく成績もちゃんと良くて、運動もできて、(大人になってから写真を見たら横の女の子の方が遥かに美しかったけれども、それでも当時の僕の価値観では)美しくて、僕はその子の全てが好きだった。苗字と名前までかっこよかった。お勧めの本も、当時の僕には難しいくらいの文学だった。それは恋であると同時に崇拝でもある。僕は、長いこと、人が人を好きになるというのはそういうことだと思っていた。

宗教団体で働いていた彼女は、まったくそうではない。まず、あまり仕事ができない。上司の指示を十分に理解できていないし、ミスを繰り返す。クソみたいな仕事ぶりなのに、一丁前みたいな口振りで仕事を語る。「あー、もうこんな時間だよ」みたいな独り言を言う。横で聞いていて、『うるせえお前の意見なんて聞いてないからとっとと手を動かせよ』、と思う。期限を守れない。本人のいないところで同僚から陰口を叩かれているんだけれど、全く擁護できない。彼女のそういう一つ一つの特性、そのうちの一つを持っていただけで、僕は過去に人を全力で嫌ったことがあるし、それらを好ましいと感じるわけではない。でも、そういう点も全て含めて、僕は彼女が大好きだ。ダメなところが好きなのではなくて、ダメなところは純粋にダメなんだけれど、それも彼女の一部なのでそれも含めて全てが好きなのだ。ダメなところしか述べていないのでフォローすると、顔は、美人ではないけれど醜くはない。声は、美しくはないけれど耳障りではない。小柄で、スタイルはあまり良くはない。あまりフォローになっていないけれど、仕方がない。苗字も名前も、なんというかコミカルだ。でも、僕はその苗字は結構好きだ。

彼女は本が好きだったので、お勧めの本を教えてもらった。僕と彼女はその時それほど親しくはなかったので、多分オールタイムベストでなくて最近の中で人に言っても良いものだったんだろうけれど、比較的エンターテイメントだった。比較的猟奇的でもあったので、あまり親しくない人にお勧めするのに適切という訳ではない気もするけれど、まあ多分オールタイムベストではないと思う。それを踏まえても、なんというか、人生を変える物語というわけではなかった。そこそこ面白かったけれど、初恋の女の子が小学校のときに勧めてくれた本のような、深淵を覗き込むような本ではなかった。かといって、エンターテイメントとして珠玉ということでもなく、Amazonでもあまり評価は高くなかった。ひどい言いようだと思う。でも、僕が言いたいのは、そういうところも含めて、大好きなのだということだ。そういうのって、本当に理不尽だ。

私の偏頭痛は、前兆である閃輝暗点から始まる

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私の偏頭痛は、前兆である閃輝暗点から始まる。いつが初めてだかわからない。最初の頃は、その二つに関連があるとは知らなかった。多分、ただの貧血かなにかと、ただの頭痛だと認識していたと思う。思い返すと、それは必ずセットで訪れていた。

偏頭痛についてちゃんと知ったのは、ずっと後のことだ。余りに痛いので、流石に脳の病気ではないかと思って病院に行って、偏頭痛の仕組みを知った。偏頭痛は、脳の血管が異常に収縮し、その後拡張するために起こる。収縮しているときに閃輝暗点といわれる視覚障害が発生し、拡張するときに猛烈な頭痛が起こる。

私の閃輝暗点は、だいたい典型的な症状で、視界が壊れたMPEGみたいになる。再生が進むにつれて、どんどん壊れていくMPEGだ。それは、本当に怖い。目隠しのようなハードウェア的な破損ではなく、ソフトウェアとして視界が壊れていく感覚だ。私は子供の頃、閃輝暗点について、母に詳細に話したけれど、母はそれを神の啓示だとか特別な証明だとか、そういったことを言った。それは私にとって、何の救いにもならなかった。

偏頭痛の仕組みというのは、人間が、物理的な機械なんだと私に感じさせる。脳の中の血管の収縮と拡張という物理的な現象が、私の視界の異常や痛みという、他人と共有できない体験をもたらす。

病院では、偏頭痛が発生してからその症状を和らげる薬を処方された。私の偏頭痛は結構重くて、数時間は座っていることもできないし何度か嘔吐するので、薬は本当に救いだったのだけれど、服用のタイミングは偏頭痛が発生してからなので、閃輝暗点との付き合いは変わらない。

私は絵を生産するために絵を描いているのではない。私は世界を理解するために絵を描き、副作用として絵が生産される。

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私は絵を生産するために絵を描いているのではない。私は世界を理解するために絵を描き、副作用として絵が生産される。絵。それは私にとってはそのものだけれど、本質的にはメタファーだ。誰かにとってはそれは文章かもしれないし、他の何かかもしれない。

私はこれまでに生きてきた人生の大半の時間を費やして、あらゆる絵を描いた。本当に、あらゆる絵を描いた。そんな私にとって、エーテルはこの上ない最良の画材だ。私はエーテルを使って世界を理解する。そして、副産物として絵が生産される。

さらに、私は思う。私は、多分、誰かにとっての画材なのだ。誰か、或いは何か。その何かは多分、私を使って世界を理解しようとしているのだ。私はその絵を見たいと思う。しかし、ウルトラマリンが絵を認知できないのと同じように、きっと私はその絵を認知することはできない。

国技館の怪人、または私は如何にしてあれほど嫌悪していた大相撲に足を運ぶようになったか

子供の頃から少なくとも25歳くらいまで、僕は相撲が嫌いだった。実家が相撲部屋だったとか関連した商売をしていたとかそういうことは全くなくて、一度だけ親に連れて行かれた国技館も相撲ではなくプロレスだった。相撲はテレビで祖父や祖母が見るものだった。その何もかもが大嫌いだった。服装とか、髪型とか、太っているところとか、チケットのプレミアム性とか、いかにも封建的な体制とか、八百長とか、知れば知るほど、そういう何もかもが嫌いだった。それは、限られた世界での身内の馴れ合いで、単なるショーで、人類に全く貢献していない、あらゆるスポーツのように、肉体を磨き上げて人間の限界に挑戦するのではなく、興行として見世物としてくだらないことをしているだけだ、そしてその何もかもが、醜い。アメリカかロシアの、全身が筋肉の格闘家が参戦して、簡単に圧倒すればいいのになと思っていた。

対して、ここ数年は、年3回の東京場所は、毎場所数回は国技館に行く。新宿や恵比寿や高円寺のライブハウスに行くくらいの気軽さで、その代わりに国技館に行く。そういうのって、変化だ。相撲が素晴らしいと思ったわけではない。他のあらゆるスポーツも、大して変わらないのだと思ってしまったのだ。サッカーも、オリンピック競技も、ツールドフランスも、結局のところ興行で、見世物で、商売だ。だから、何の生産性も生み出したくない休日の時間の使い方として、国技館に行って相撲を観る、ということをする。チケットの取り方も、昔は良く分からなかったけれど、分かってしまえばなんてことはない。

不祥事とか、暴力沙汰とか、八百長でニュースになるたび、相撲は本当に良くできていると思う。良くできているから残ったのではなく、色々なものがあって残ったものを見てみると良くできているのだけれど、まさにその通りで、定期的にニュースになる宣伝効果というのはものすごいし、それは意図的に行われているわけではない。問題を起こした人は宣伝のためにやっているわけではなく、その結果としてある程度不幸になるんだけれども、その度に集団としては莫大な広告となって、忘れ去られることがなくなる。ラグビーのニュースがこんなに定期的に流れることがあるだろうか。だから、ラグビーは商売として成り立たない。選手に最低でも1000万円以上の収入が支払われる競技にはなれない。それがいいかどうかは別として。

ルールも良くできている。ちょっと格闘技をかじるとすぐにわかるけれど、トレーニングを積んだ人と人がルールなしで戦うと、簡単に体が壊れる。ある程度体を鍛えた人が素手で顔面を殴ると取り返しの付かないことになるし、関節を極めると本当に簡単に治らないレベルまで壊れる。毎試合、再起不能になっていたら競技が成立しないから、格闘技はルールを設けて制限を行う。例えばグローブをして殴るだけにしたり、殴ることを規制したり、レフリーが素早く止めたり、体重を制限する。それでも、壊れる。制限とトレードオフで、選手の特別性というのは失われる。軽量級のボクサーがその辺を歩いていても、誰も振り返らない。自分と大して変わらないものを見るために、人はお金を払わない。

こういうのは、まさに遺伝的アルゴリズムというか、淘汰が繰り返された結果、残ったものはもの凄く良くできている。分かってやっている必要はなくて、それぞれの要素は明らかに間違ったことをしていても、全体としては生き残る。その結果として僕は、生産的なことがしたくない休日に、ある程度の収入があると比較的安価に感じる価格の、それなりに価値のあるチケットを手に入れて、ちょっとした時間を潰すことになる。

僕が彼女と出会ったのは、国技館の、土俵に一番近い席の一つだった。

承認をくれるから好きな訳ではない。

短所が好きな訳ではない。それでも、彼女に関わる全てを、僕は大好きだ。短所が好きなわけではないけれど、それは彼女の一部だからだ。直して欲しいとも思わないけれど、直っても彼女の魅力に変わりはない。彼女が過去に何をしていても、彼女の魅力に変わりはない。もし、彼女がどんなにクソみたいな男と付き合っていたとしても、彼女が体を売っていたとしても、何かの依存症だとしても、人を殺していたとしても、彼女の魅力に変わりはない。承認をくれるから好きな訳ではない。そもそも今のところ、僕は彼女の人生に大して関わっていないし、彼女がそれを望まなければ、きっと関わることはないだろう。それで構わない。僕は彼女に何も求めてはいない。物品も、肉体も、経験も、承認も求めていない。

僕が彼女を嫌いだろうと言った友人の気持ちは大いに理解できる。そもそも、僕は死ぬほど宗教が嫌いで、彼女は教団の教祖なんだから、これ以上の違いはないだろう。理不尽。でもこれが人間だ。

長くなるけれど、結論としては、僕は彼女の何もかもが大好きだ。

これは、たとえば文章にして他人が見たら「まあそういうことも良くあるよね」という話でしかないんだけど、世界中のわざわざ文章になっている「まあそういうことも良くあるよね」という話と同じように、それは自分にとって特別な出来事だった。

友人に、僕は彼女のことが嫌いだろう、と言われた。無理はない。どちらかといえば、僕は物事に対して完全であることを望んでいて、彼女はまるでそういうタイプではない。彼女は人間的にまずい部分と、アレな部分がある。傍から見ていて、クズだな、とか、バカだな、とか、うざいな、と思うことが一日に何度もある。そういうところも全て含めて、あらゆる点を含めて、僕は彼女が大好きだ。

ダメなところが好きなわけではない。彼女が保有する何十ものダメな点は、それ一つで、一人の人間を嫌いになれるくらいのものだ。ようなもの、というより実際、それを一つ保有しているだけで僕からものすごく嫌われて、人生が若干狂った人間が何人もいる。そう思うと、彼、彼女たちには悪いことをしたと思う。彼女はそういう要素を何十も持っていて、それらを全て含めて、僕は彼女が大好きなのだから。特別に美人というわけではなく、何か特技があるわけでもない。短所が沢山あって、その短所が好きなわけでもないし、話し方とか、声の質とか、口癖とか、それぞれの特徴はどちらかといえば好きではない。それでも、それらが総合した彼女のことを、僕は大好きなのだ。不条理。でも、人が人を好きになるというのはそういうことだ。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。