ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

そんな訳で、僕が画商になったのは本当に偶然だった。

そんな訳で、僕が画商になったのは本当に偶然だった。どうしてもなりたくてやっとなったわけではない。たまたまロンドンを旅行しているときにイギリス人の画家の女の子に恋をして、その頃、ロンドンには寂しいからAIDSをもらうというクレイジーな文化があり、彼女もばっちりAIDSだったので僕は肉体的な関係は持たなかったんだけど、僕は彼女の全てが本当に素晴らしいと思ったので何か彼女の痕跡が欲しいと思い、たまたまそこそこ現金があったので、彼女の作品を大量に買った。彼女の絵が素晴らしいと思ったわけではない。まあ、凡庸な絵だと思った。僕は海外旅行の大半を美術館で過ごす程度には絵を見るのが好きで、彼女の作品がそういう世界に入るものではないというのは明らかだった。僕が彼女のことを大好きになってしまったポイントというのは彼女自身であり、なんというかこじらせてしまっている愛らしさであり、一生懸命生きているところであり、多分そのうち死んでしまうんだろうなというところであり、絵ではなかった。でも、それらの絵は彼女のその時の全てだったので、僕はそれを欲しいと思ったのだった。

日本に帰ってしばらく経ち、彼女が死んだというのをニュースで見た。彼女はニュースになるほどの画家ではなかったんだけどなと思ったけれども、僕の知らないどこかの一般に影響力のあるアメリカ人が彼女の絵をメディアで紹介し、突然認知度が上がって同時に死んだみたいだった。絵は基本的に投機の対象だから、作者が死んで初めてちゃんとした値段がつき始める。僕は勢いで絵を買ったものの正直もてあましていたので、大半を手放すことにした。ルーブルに飾られるべき絵ではないにしろ、金持ちの家に気軽に飾るには悪くない絵ではあるし、彼女も本望だろうと思った。

そんなことをしていたら、手元に置いておきたい数枚を残してあらかた片付く頃には、コレクターの中では絵を見る目のある人ということになり、若い画家の中では絵を評価されたい対象になり、僕は仕事なんて何でもいいと思っていたので、なし崩し的に画商になることになった。人生というのは本当に分からない。

成し遂げるべきことなんて何一つないのに、何かをしたいふりをしないと、普通に生きて行く権利すら与えられない。

僕はこれまで、色々なことに取り組んで、全てそれなりに失敗した。失敗。成功か失敗かは、定義による。全て失敗したとばっさり言い切れればすっきりするんだけれど、それぞれの結果として、その結果を本心から望んでいた人もいるという事実もある。例えば、僕は大学の学部を卒業するときに銀時計をもらったけれど、シリアスにこれを欲しがっていて手に入れられなかった同期や先輩を何人か知っている。ある分野で、いくつかの賞を受賞したけれど、この賞の為に人生を投げ打っている友人もいた。会社に勤めていたときは最終的な年収は同年代の平均の3倍くらいだった。会社を二つ設立して、一つは売却し、一つは清算した。社会的な価値のある面白くて仕方のない仕事をしていたことがある。

それぞれ、それが欲しくて仕方ないという人もいて、しかし僕はそれを成功だと感じないという点でやはり失敗だったと思う。もしかすると、それぞれが全て繋がっていたら、或いはうまく行ったと思えたかもしれない。大学で勉強したことを全て生かし、自分の設立した会社で社会的な価値のある面白くて仕方のない仕事でいくつかの賞を受賞しながらそれなりに高い収入を得ていたら、まあ、それに文句はつけないかもしれない。しかし、残念ながらそうではない。僕の人生の場合、社会的な価値のある面白くて仕方のない仕事は高い収入を生まなかった。なかなかうまくいかない。

結果、僕は人生のある時間と引き換えに、学歴と、職歴と、マンションが買える程度の現金を得た。完全な失敗ではないけれど、成功ではない。ものすごくうまく行く可能性だってあったのだから、宝くじの期待値のようなもので、結果だけを観測すべきではないのかもしれない。

さてどうするかな、と僕は思う。

成功。実際のところ、仕事の内容なんて何でもいいから、一生遊んで暮らせるだけの資産ができれば成功で、それまでは失敗なのかもしれない。内容はなんでもいい。しかし、今の世の中では、何かをしたいふりをしないと普通に生きて行く権利すら与えられない。高い報酬が目的で医者になるというのは不適切で、人を助けるために医者になると言わなければいけない。成し遂げるべきことなんて何一つないのに、何かをしたいふりをしないと、普通に生きて行く権利すら与えられない。

僕は恋に落ちた。

僕は恋に落ちた。相手がどんな人物であるかは大した問題ではない。実際のところ、僕はこれまでの人生で何百回も恋に落ちていて、その相手は黒髪の小柄な年下のバイトの先輩だったり、クラブで声をかけた金髪で耳の軟骨にピアスをいくつも空けた処女だったり、サブカル好きで音楽の話で一晩中すごせる友達だったり、以前部下だった蕁麻疹が出るくらい嫌いな日常的に嘘をつく中年女性と同じくらい全然仕事ができない普通の見た目の星新一に詳しい女性だったりして、僕はその度にはっきりと、恋に落ちたことを認識する。

10代の頃は、恋に落ちると辛いことばかりだった。だいたい10代の頃なんて、男子にしろ女子にしろ頭には性欲しかないわけだから、悲しい出来事がじゃぶじゃぶと発生する。僕が好きになる女の子は当然、僕とは違った価値観を持っているから、なんでよりによってそんなのと、と思うようなクズとくっついて破局する。僕も僕で、別に大して誠実なわけではなくて、飲みに行って成り行きでくっつくのが定番のパターンだから大して変わらない。我々は動物だから、悲しいけれどもどうしようもない。

今は、それほど辛くはない。それは、年を取ったからではない。僕が既に結婚しているからだ。素敵な女の子がいて、彼女が変な男とくっついても、まあ自分よりはマシだしなと思う。現実的に、僕は彼女を一般的な価値観の上で幸せにはできない。最悪、彼女がどこかの中年と不倫したって、自分が提供できるものと何も変わらないのだ。そういうのって新しい感覚だ。そして、自分の求めているものが明確になる。そもそも、僕が彼女に求めるものは肉体ではない。話をしたいとは思うけれども、それは重要なことではない。幸せになって欲しいとは思うけれども、それが全てではない。実際には何も求めていない。彼女のことを僕が素晴らしいと思ったという事実が、なんらかの形で世界に残れば良いなとは思う。まさにその通り、願望といえばそれが全てだ。セックスも、話をすることも、結婚式をあげることも、全て手段でしかない。結局のところ僕は、彼女のことを僕が素晴らしいと思った事実をなんらかの形で残したいと思って行動しているに過ぎない。それ以外の全ては手段だ。

ここには二つの事実がある。

彼女のことを僕が素晴らしいと思ったという事実が、なんらかの形で世界に残れば良いと心の底から思うことが、僕の恋の定義である。

結婚するメリットの最も重要なものの一つは、恋に落ちても辛くないということである。もっとも、それは内向的で考え込むタイプの人間限定なのかも知れないけれど。

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ゲームの箱(グラフィティ) - W███████a

ゲームの箱(グラフィティ)

ゲームの箱は、ニューヨーク及びパリ、台北ハノイ、ロンドン、東京の建造物に製作されたグラフィティ、物語。作者は不明。それが何であるかはわかっていないが、それが何ではないのかは、参加者によって多くの分野で調べられている。例えば、企業の公告でも、公共事業でもない。作品にタイトルはついておらず、「ゲームの箱」という名称は通称である。グラフィティに分類したが、作品はキャンバスに描かれ壁に貼られており、強化ガラスのケースで覆われている。

作品の概要

ゲームの箱は最初ニューヨークに設置され、その後、前述の各都市に設置されている。以下、特に記載がなければ全てのエディションに共通の内容である。

ガラスケースを開けて確認した人間はいないためあくまで観察の結果だが、作品はキャンバスに、世界で最も黒い物質を使用した塗料と再規制反射材を使用して描かれている。そのキャンバスが壁に貼られており、一回り大きい強化ガラスのケースで覆われている。絵の全体は、離れて見るとただの直方体に見えるので、ゲームの箱と呼ばれるようになった。他に、箱のゲーム、モノリスロゼッタストーンと呼ばれることもある。

ゲームの箱は、単なる絵ではなく、物語と、謎を解くという二つの要素で構成されている。

物語

ゲームの箱には1人の人間が朝起きてから世界が終わるまでの物語が描かれている。ただしその内容は、後述の「謎を解く」という行為によって、各人の認識は変化する。

謎を解くゲーム

以下の全てのルールに関しては、絵画に明示的に書かれているわけではなく、参加者がゲームを進めるにあたって分析したルールである。

全体としてはいわゆる「謎解き」ではないが、一部に類似する部分が存在する。参加者は、保守と革新に分かれる。負けると、そのチームの世界が終わる。最初にゲームをクリアした参加者には、箱のゲームの所有権が与えられる。

参加者がゲームを進めるためにできることは「知ること」である。知るために、情報を発信したり、計算したり、暗号を解く必要があるが、全ての目的はあくまで「知る」ためである。知ったことの総量がすなわちその参加者にとっての世界となり、ゲームに負けるとそれが全て失われるというストーリーとなっている。

単なるなぞなぞやパズルではなく、物語の不足を補いその謎を解いていくというゲームとなる。その為、鑑賞者は絵の前でメモを取り、計算し、ウェブで情報を調べ、更には発信するという行為を行う。この性質により、ニューヨークでは一時、設置された建造物からセントラルパークまで行列ができ、セントラルパークのベンチはスマートフォンを覗く人々や計算をする人々で埋まり、ホットドッグが猛烈に売れた。現時点でも大半の謎が解かれていない。ゲームの箱の提示する謎を理解するためには、現在進行形で進む出来事が関係しており、ブログなどでの個人の投稿なども必要となる。そのため、ヒントが出揃うのがいつになるかすら、誰にも分かっていない。

絵画としての評価

絵は超絶技巧で描かれており、極めて緻密な描写が、およそ2メートル四方のキャンバスを埋め尽くしている。そのため、一般的な絵画と比較して、撮影してモニタで鑑賞するということが困難である。一般的なカメラで全体を収めると、ただの黒い直方体となる。美術品用のカメラを使用して、8kの2メートル四方のモニタで表示すれば一応鑑賞はできるが、それでも解像度は足りず、当然、塗料による立体的な感覚も得られない。

グラフィティとしての分類

一般に、グラフィティは、スプレーや塗料で壁に直接描かれるが、それ以外にも、紙に印刷したり描いたりしたものを接着剤で貼り付けるという手法があり、ゲームの箱も同様の手法として捉えることができる。
また、ゲームの箱が設置されたのち2週間ほどで、建造物の周囲数百メートルのグラフィティが全て消され、ゲームの箱に向けた矢印が描かれた。これは、ゲームの箱に向けた敬意であると言われている。ゲームの箱の知名度が上がってからは元のようにグラフィティが描かれるようになったが、一部の矢印は今でも確認することができる。

設置の経緯

****年、ニューヨーク・マンハッタン5番街の███████ビルに、ゲームの箱は製作された。キャンバスの貼り付け、ガラスケースの設置を行った人物は不明である。ビルのオーナーの依頼で設置したわけではなく、何らかの宣伝でもないため、目的は不明である。ただし、██████████紙の取材によると、オーナーには契約金が支払われており許可は取られている。契約の内容により、契約を行った相手については公表されていない。ビルのオーナーの依頼で作成したものではないというのは、ゲームの箱設置がビルのオーナーに何の利益ももたらさないことから明確で、設置されたビルは客寄せが必要な店舗ではなく、単なる倉庫である。このことより、通常のグラフィティ同様、単なるストリートアートの手の込んだものであると考えられている。

各都市のエディションについて

事実はただそれだけで強い

ものすごく売れているバンドが歌詞の中で枕営業をほのめかしていた。聴いたときは結構センセーショナルだと思ったんだけど、実際のところ、それは抽象化されてしまっていて力がない。そういう話もあるのね、で終わる。
芸能に関わる仕事に限らず、枕営業というのは見るところでは当然のように見る。ふわっとした表現にするなら、恋人や愛人に便宜を図るというのは、当たり前にある。まして芸能事務所によってはごくごく普通に露骨に行うから、それを身近で目にした人間がタブーを公開してやろうとして、メインの仕事でかつ影響力のある歌に入れてしっかり枚数を売る。それでもなんの力もない。

事実はただそれだけで強い。個人が一人称で直接、感情を含んだ考えを述べるという行為は強い。沢山の物語がいくらでも読めて、世界中の最新のニュースが入手できて、あらゆるジャンルのエッセーが販売されていて、価値のある論文が公開されていて、それでも文章はめちゃくちゃで校正も校閲もなく根拠も不確かで引用も適切でない個人のブログやツイートが読まれるのは、そういう生っぽい情報の強さによるものだ。固有名詞の強さ。完全な同時代性の強さ。それはある面で、既存の芸術にはない一つの芸術といってもいい。

映画を、第七芸術というけれども、そのあとに続く第十二芸術くらいに、文学でもなく詩でもなくメディアアートでもない「それ」が入っても不思議ではないし、そういう意味でいわゆる「ネットウォッチ」は完全に芸術鑑賞行為だといえる。でもそれは、花火のようなもので、何も残らない。どれだけ素晴らしい示唆があっても、何も残らない。同時代性と時代が変わっての価値というのはトレードオフで、そういうのはいかにして混合できるんだろうかと考える。

フィクションだからといって、現実の世界に存在するものが登場しないわけではない。あらゆるフィクションも何らかの点で現実に基づいている。机や椅子、人間、政治家、指輪、動物、何もかも空想上のものではない。それはきっと、段階的な抽象度の問題でしかない。

抽象化していつの時代の人でも読める物語といえば童話で、普遍的な人間の行動が描かれている。目の前で起こった事件に、童話をメタファーとして使うこともできる。でも、力はない。例えば、星新一のSFも、童話のように抽象化されていて、何十年も前のSFが全く古くならずに読めるし、その中で発生する人間の感情はまさに今誰かが感じていてもおかしくないくらい普遍的だ。でも、なにかがない。それは、どこか違う世界のいつかの出来事であって、この世界のこの瞬間に起こった出来事ではない。

第三者による分析ではなく、何かの当事者の一人称の、わざわざ発せざるを得ない言葉には、ある種の力がある。その魅力は、実際にあった話なのか、ロールプレイなのか、デマなのか、その信憑性に懐疑的なものでも価値を持たせるくらいの力がある。結果、本当に存在するのか分からない人物の一人称による物語が拡散することもある。皮肉だ。

自分が観測することで世界が存在するなら、客観的な世界は同時に存在している全ての人が観測した世界の集合だから、その文脈においては世界を知りたいと思うことは他人の観測を知りたいと思うということなのかもしれない。

そして到来する世界の終わり

そして、世界は終わった。世界が終わったという言葉の意味は、世界をどう定義するかによるだろう。しかし実際のところあらゆる意味で世界は終わった。これは如何にして世界が終わるに至ったかという物語であり、終わった世界において単に全く無意味な行為だ。

しかしそもそも、終わる前の世界で、無意味でない行為なんてあったんだろうか。

Table 2. エーテルの比較

一般的なエーテルと『ラボ』のエーテルについてTable 2で比較する.

Table 2. エーテルの比較
 公開されているエーテル『ラボ』のエーテル
ライセンスOSS(ディストリビューションにより違いがある)アメリカ合衆国軍事機密
インプット筋肉の電圧をセンサで取得する(手首を切断して)神経から取得する
フィードバック電気的なフィードバック(手首を切断して)神経にフィードバックする
インストー HMDやフィードバックグローブを併用して学習を行う。取得したデータを深層学習で学習する。
フィジカルな適性があるため、校正の回数には個人差があり、精度に不満があれば随時学習をやり直すことができる。
手首を切断するという不可逆な施術を行うため、手首を切断する前に十分なデータを取得する。その際は、公開されているエーテル同様、補助的なデバイスの併用も行う。
公開されているエーテルとは違い、手首切断後に同一の学習を行い精度を上げることはできないが、インストールが成功していれば、手首切断後の接続では、神経接続から直接校正を行うことができる。したがって、神経接続のみで校正が行えるかどうかがインストール成功の目安となる。
デコーダ インプットされた電気信号が何を意図していたのかをデコードする。学習済みデータを使用するため、計算量は学習と比較して小さい。
ネットワーク プロトコルは同一。イーサネット同様、閉鎖網も構築できる。異なるバージョンのエーテルも混合して接続可能。
この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。