ソーシャルシリアスゲーム: 2rot13

Social Serious Game: 2rot13 この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。

モネは目にすぎないが、なんと素晴らしい目だろう。とセザンヌは言った。

f:id:ROT:20170709235844j:plain

モネの睡蓮を見て、私は何が描かれてるのかわからなかった。ぼんやりしていて、抽象画なのだろうと思った。これが睡蓮で、これが水面なのだといわれても、まあそういう思いで描いたんだろうとしか思わなかった。その時の私にとってモネは、マーク・ロスコと同じジャンルの画家だった。

いくつの時だったろう。父親に連れられて、ジヴェルニーに行ったら、まさに絵の通りの光景が広がっていた。モネの絵は、完全に写実で、まったくそのままを写し取ったものだった。ああ、これを描いたのだ、と思った。観光客が何度も入れ替わる中、私は朝から夕方までずっと池を見ていた。その衝撃をどう表現すればいいだろう。抽象画だと思っていたものが完全に具象だったのだ。完全な写実、完全に見たままの世界。

いちばんたいせつなことは、目に見えない。とキツネは言った。

星の王子さまだったのか。ぼのぼのという可能性もあった。フェネギーくん。くすす。

物語にはあらゆる可能性があり、そして収束する。

物語の始まり、世界の終わり

f:id:ROT:20170709235844j:plain

腕はどこまでも伸びる。手はどこまでも拡大する。なるほど、こういう感覚なんだな、と思う。それは、センサと神経フィードバックで擬似的に作られたものとは思えないくらい自然に私の手で、失ったものと引き換えにどれだけ凄まじいものを手に入れたのかということを私に存分に理解させる。

私は世界を撫でる。私は世界を視る。指で点字を撫でるように、彫刻を撫でるように。しかしそこには色があり、腕の長さという限界がない。そこには私の脳を超えた世界の認識があり、忘却がない。

ある日僕が恋に落ちた人は、本が好きな人だった。

ある日僕が恋に落ちた人は、本が好きな人だった。彼女が「いいよ」っていう本を読んで、普通に良かったけど心が動くという訳ではなかった。なるほどそれは良くできた話だったし、全く不満はないけれど、それは僕の体に何かを差し込んでくるものではなかった。そんなもんよねと思っていたら、全く関係ないところで全然期待せずに読んだ本が猛烈に良かった。読み始めはもちろん終盤まで大して期待していなかったけど、終わってみれば完璧だった。ハッピーエンド。思春期と葛藤と克服。すごい切ない。最高。

結局のところ僕の心が動く物語というのは【人生がクソ(死にたい)社会がクソ(殺したい)絶望(思春期)→死んでもいいと思っているけれどたまたま生きる→生きていると徐々に自分の人生をコントロールできるようになる→価値は自分で決めるものだ(捏ち上げる)→突然、怒涛の展開(超越)→全員ハッピーエンド】という定型のようで、それも物語の80~90%くらいまでは誰も幸せになれなそうで分量的に終わりが見えてから始まる超自然的ではない急展開で主要人物が幸せになるという歪なバランスがとても重要。

題材はなんでもいい。純文学でも恋愛でもスポーツでも青春でも、更に形態もなんでもよくて、小説でも詩でもマンガでも映画でも舞台でも音楽でもゲームでもイベントでもいい。ただし、僕はその物語がハッピーエンドであることを知っていてはいけない。だから好みを伝えて薦めてもらうという事は出来なくて、たまたま出会う必要がある。

如此く気づきというのは突然訪れて、それは常に同時性と普遍性を携えている。きっとどこかに僕の人生の課題があるんだろう。

この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには関係ありません。